本丸より(4)

地球儀

 

ニューヨークに来て最初に買ったのは自転車だった。
それには理由があった。
矢作俊彦の本に「ブロードウェイの自転車」という短編集がある。
表紙のイラストを描いているのは大島弓子だった。
その短編集は、マンハッタンを舞台にした男女の小さな出来事が綴られていて、この町に暮らすようになって読み返してみると、通りの名前や町の情景が正しく描写されていることに改めて感心した。
私はその中の特に最後の一節に強く心惹かれた。

「さよなら。いい旅をね」
 彼は、四十五丁目に走り去って行く自転車を、いつまでも見送った。それから鍵を出し、グランド・セントラルの方向にもう一度、目を投げた。
 すると、二度とここへは帰って来れないような気がして、誰でもいい、誰かにさようならを言いたかったが、うまい相手がどうしても思いつかなかった。

それで、私はまず自転車を買い、ブロードウェイを走ることにした。
そもそも、私のモーティベーションというのはいい加減なものや、突発的なものが多い。その自転車に乗り、116丁目にあるコロンビア大学の寮を出て、ブロードウェイを“望み通り”に南へ下り、そうして、72丁目で左折して行った先は、ダコタハウスだった。ジョン・レノンがそのダコタハウス前で銃弾に倒れてからずっと、私はそこに行きたかった。

次に買ったのはこの地球儀で、中に小さな電球が付いていて、本当なら中から光るようになっているのだけど、とっくに電球は切れてしまったらしい。
私は世界地図というものを持っていない。
最近になってやっと、必要があったのでアメリカの道路地図を買ったけれども、地図らしい地図はごく限られた国のものを単品で持っているに過ぎない。

私は今まで旅に出る時はいつも、さてどこに行こうかと、この地球儀を回した。信じられない話だけれども、この地球儀で旅のルートまで決めていた。この地球サイズで考えると、どんなに遠くへ行ったとしても、地球の「外」まで行ってしまうことはないから、まあ、心配はない、などと考えていた。

この地球儀にはまだ「ソビエト連邦」があり、ドイツが「東」と「西」に分かれていて、今は存在しない国があったり、あるいは消えていたり、名前が古かったりする。
時間と言うのはそういうものかもしれない。

地球が平らだと信じていた頃の人々と同じように、私達もまた、気付いていないことはきっと多い。そして、今は想像できないことであっても、いつか叶うことが絶対にないとは、誰にも言えないのではないのかと。

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